東京外大 2015年前期 1 日本語訳


「エッフェル塔はフランスにある」は本当かうそか。私たちのうちほとんどの人は、一般知識を頼りに素早く,そして正確に,この問いに答えることができる。しかし,次のような主張について考えるように求められたらどうだろう。「ビーハイブは、ニュージーランドにある建物である」ニュージーランドを訪れたり、この国に関するドキュメンタリーを見たりしたことがない限り,おそらくこれは難しい問題である。したがって,この主張に答えるために一般知識を使うのではなく。直感を当てにすることになる。別の言い方をすれば,スティーブン=コルバートがいうところの 「本当らしさ」、つまり、文字で記された記録ではなく、直感による正しさに頼ることになるのである。
 認知心理学者として。私は記憶や信念がどのように間違ってしまうかを研究している。どのようにして,本当はそうではないのに物事が輿実だと私たちは信じるようになるのだろうか。どのようにして,実際にはまったく起きていないことを思い出せたりするのだろうか。私はとりわけ,本当らしさという概念に興味がある。賢くて教養のある人たちが。あることが真実であるかどうかを判断するのに、どのようにして無関係な情報を使うのか,ということである。
 たとえば,ミシガン大学のノーバート=シュワルツとロルフ=リーバーによるある古典的な研究では,文章がコントラストの弱い色(白地に黄色)ではなく,強い色(白地に青色)で書かれている場合のほうが,人はその文章を本当であると考える傾向が強かった。もちろん、色のコントラストはその文卓が真実かどうかとはまったく関係がなかったが,それでも,そのコントラストが人々の反応を偏らせたのだ。コントラストの強い色が本当らしいという感じを生み出した理由の一つは、その文章が色のコントラストが弱い文章よりも読みやすく感じられたことである。そして,処理が簡単である(つまり,認知の努力が少ない)というこの感覚は、親近感をもたらすことがわかっている。物事が簡単に処理できると感じられると,信頼できると感じられ,私たちはそれを好み,本当だと思うのである。
 カリフォルニア大学アーバイン校での私の研究では,ニュージーランドとカナダの心理学者たちと共同で,人はどのようにだまされて,あることを知っている,信頼できる。本当だと感じると考えてしまうのかを調べている。私たちの研究では,どのようにして写真や名前が,人の記憶や信念や他人への評価に驚くほど強力な影響を及ぼすかに焦点を当ててきた。
 写真は理解を促進し、新情報を知ったり記憶したりするのを容易にしてくれる。しかし、認知心理学の研究では,写真はまた,マイナスの影響も持ちうることがわかっている。写真は,物事が真実ではないのに,真実だと人に信じさせたり思い出させたりすることがあるのだ。カリフォルニア大学アーバイン校のエリザベス=ロフタスらによる研究では,オバマ大統領が元イラン大統領のマフムード=アフマディネジャドと握手をしている偽造写真を見た人たちは、現に,その出来事が起きたことを覚えているといった。それがまったくのうそであるのにもかかわらず,である。写真は,私たちをだまして,自分自身の子ども時代のうその出来事を記憶していると思わせることさえある。子ども時代の偽の写真を見た人たちは、実際にはなかった出来事(気球に乗ったこと)を,本当の記憶なら期待できるであろう詳細さと感情とともに、思い出すようになった。
 写真は現実の出来事の記録なので、私たちがそれを何かが実際に起きたといういちばんの証拠だと見なすことが多いのは驚くには当たらない。もっと驚くべきことは,写真は,今目の前にある主張の何の証拠にもならないのに、人の考えを変えてしまうことがあると、私たちの最近の研究が示したことである。私たちがニュージーランドのビクトリア大学ウェリントン校で行った調査で,人々がある文(たとえば「マカダミアナッツは,桃と同じ進化的類縁関係にある」)を,その主張と単純な関係しかない装飾的な写真(ボウルに盛ったマカダミアナッツ)とともに読むと,その主張が本当だと信じる傾向がより強かったことがわかった。つまり,こうした装飾的な写真が本当らしさを生み出したということである。主張と関連はあるが,主張そのものを表現してはいない写真でも、人々がその主張は信頼できると思い込むことを促したのだ。しかも,この本当らしさの効米は,数分ではなく,何日も続き,人々の考えに長期にわたる影響を及ぼす可能性があった。
 だが,視覚的なきっかけは,人がさまざまな主張の評価をするのに使う,判断には役立たない情報源として唯一のものではない。人は,ある言柴の言語的な属性といった,情報のもっと微妙な特徴にさえ影響されることがある。
 発音が、製品や株、さまざまな活動に関して,人の判断に影響を及ぼすことがあることはわかっている。簡単にいうと,人は発音が簡単なもののほうを好むのである。私たちは。マグナロクセイト(Magnalroxate)のほうが,ネグリピトロム(Hnegripitrom)よりも安全な食品添加物だと思う。オハンジー(Ohanzee)という名のジェットコースターのほうが。チースキリ(Tsiischili)という名前のジェットコースターよりも危なくないと思う。そして,株式市場では,発音の簡単なティッカーコード(たとえばKAR)のほうが,発膏の難しいティッカーコード(たとえばRDO)よりも,ほんの1囗の取引後でさえ。業績がよいのである。
 発音が,製品や遊園地の乗り物や株の認識に影響を及ぼすのは一つの事実である。しかし,私たちはきっと他人をどう思うかについては,そのような無関係なきっかけにおめおめと影響されたりしないのではないだろうか。
 ところが、実際には影響されてしまうのである。発音しやすい名前の人はより安全で,危険ではなく,親しみやすいと思われる。そうした人には,発音の難しい相手よりも票を入れてしまうのだ。私たちは,人の名前の発音を,その人の主張の信頼性を評価する情報源として使うことさえある。最近の研究で,私たちは一巡の発言の正しさを判断するように被験者に求めたが。その発言の半分は名前の発音が簡単な人のもの,もう半分は名前の発音が難しい人のものとした。明らかになったのは。主張が発音の簡単な名前と組になっている場合のほうが,人はそれを正しいと考える傾向が強かったということだ。人々が「カメは耳が聞こえない」という主張を信じたのは。「アンドリアン=バベシュコ(Andrian Babeshko)」によるものとしたときのほうが,「チェスラウ=ラティンスカ(Czeslaw Ratyns-ka)」によるものとしたときよりも多かった。簡単な名前が本当らしさを生み出したのである。
 もちろん,名前の発音や,関係性があまりない写真は、真実に関する人々の判断に何の影響も与えるべきではない。では,なぜ,そうしたものが私たちの判断を左右してしまうのだろう。それは,色のコントラストが強い文章と同様に,簡単な名前の人物のものとされる主張や,写真を伴う主張は,処理するのが簡単だと感じられるからである。簡単な名前は認知上の努力が少なくてすむ。写真は,主張を視覚的にとらえて理解するのをより速くしてくれる。処理が簡単だというこの感覚が,多くの場合,その情報がなじみがあり,信用でき,本当であるという印として受け取られるのだ。人の脳の原始的な部分にとっては。なじみがあるというその感覚が,信川してよいものだという合図となり。一方で,処理するのが難しい情報は危険の合図となる。
 なじみがあるというこの感覚は,さまざまな状況で私たちに影響を及ぼしうる。法廷では、簡単な名前が証人や専門家をいっそう信頼できると思わせるかもしれない。労働者集団の中では、簡単な名前の人の履歴書はいちばん上に置かれるかもしれない。そして、ニュースでは,関係性が少ししかない写真でも,それは報道をより信川できるものと思わせるかもしれない。
 では,私たちはどのようにして,本当らしさという間違った感覚にだまされることを避けられるだろうか。認知心理学の研究は、多くの場合、人々は自分の先入観や,情報が自分の判断にどのように影響しているかについて気づいていないことを明らかにしている。しかし,ただ名前や写真の影響について警告されるだけでも、人はもう少し注意深くなるかもしれない。つまり、直感ではなく文字で記された記録による真実を求めるようになるかもしれない。

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