日本医科 2011 I
1
私たちの感情が私たちの道徳観に影響を及ぼす方法は2つある。1つ目は,私たちの感情は制御しがたく,それゆえごまかしにくいという事実と関係がある。そしてそれらはごまかしにくいがゆえに,その影響下で道徳に反する行為を行うように見える人々に信頼性を与える。私たちは,人が本当に怒りや愛情や恐怖に圧倒されているのなら,彼らが自分の行動の方針を変えることはできないと考える傾向があり,また,強力な感情のせいで彼らは正しい道徳的選択をすることができなかったのだと信じているゆえに,普通は彼らを許す。誰もが知っているように,このように感情の持つ抑えきれない力があることを信じているために,法律を破る人々に自らの行為の法的結末を免れさせてしまうことさえある。
2
感情が私たちの道徳観に影響を及ぼす2つ目の方法は,道徳性そのものが感情的反応に深く根ざしているという事実と関係がある。[ 訳問題 ],まるで善悪の原則が制御不能な激情の影響を受けないものであるかのように,あるいは少なくとも受けるべきではないかのように言う。しかし,これは誤解を招く表現だ。嫌悪,怒り,愛情,恐怖といったものはみな,私たちが普通認めている以上に,道徳的選択を行う私たちの能力を形作っている。感情と道徳性の関連を示す1つの好例は,有名な「暴走列車のジレンマ」だ。暴走する列車の車両が線路を暴走し,その危険に気づくことができず,そのままではきっと死んでしまうであろう5人の鉄道作業員を直撃しようとしている。あなたはたまたまその車両を別の線路に導くことのできるレバーのそばに立っている。しかし,その線路にはもう1人の作業員がいて,あなたがそうすればその人は死んでしまうだろう。問題は,レバーを引いて1人の命と引き換えに5人の命を救うべきかどうかということだ。その問題に答えた後,もう1つのジレンマの事例について考えてみなさい。あなたは橋の上に立って暴走列車を見ており,それを止めることのできる唯一の方法は,たまたま欄干に寄りかかっている大男を列車の行く手に突き落とすことだ。この場合も,あなたはそれをするべきだろうか。
3
どちらの事例も5人の命のために1人の命を犠牲にすることになるのだが,ほとんどの人が最初の事例には「はい」と答え,2つ目の事例には「いいえ」と答える。これは15万人以上を対象とした調査で検証されたのだが,彼らのうちの90パーセントがレバーを引くことには「はい」と答え,男を突き落とすことには「いいえ」と答えた。合理的判断ではなく本能が2つ目の選択を「間違っている」とするようだ。しかし,実際に,医療研究者たちは,「本能による」感情的反応が前頭前野腹内側部(vmPFC)と呼ばれる脳の部分によって支配されていることを発見した。vmPFCに損傷を受けた人々は,レバーを引くのと同じくらい簡単に大男を突き落とすだろう。反対に,vmPFCに損傷を受けていない私たちが男を突き落とさないのは,外科医が1人の健康な人間を殺し,彼の臓器を,それがなければ死んでしまう5人の患者の命を救うために使うことを許さないのと同じだろう。私たちの感情的反応は,最も有益な結果を導くどんな抽象的合理的計算よりも強力なのだ。
4
私たちの道徳観がいかに感情に影響されているかを認識するのは衝撃的なことかもしれない。しかし,私たちを導いてくれる適切な感情的反応がなければ,私たちは実際にはお粗末な道徳的判断を下してしまうのではないだろうか。たとえそうすることの結果がその行動を正当化するように見えても,橋から大男を突き落とすことを拒むのは正しくないのだろうか。レバーを引くのと同じくらい簡単にその男を突き落とすことができる人は,道徳的判断装置の中核部分が欠けていて,感情面の盲点を持っているのであり,恐らく何のためらいもなく残酷な行為をすることができるだろう。要するに,私たちの感情は私たちの道徳性と無関係であるべきだという考え方とは逆に,私たちは道徳的人間であろうとするならば,実のところ感情が必要なのだ。[訳問題]。
私たちの感情が私たちの道徳観に影響を及ぼす方法は2つある。1つ目は,私たちの感情は制御しがたく,それゆえごまかしにくいという事実と関係がある。そしてそれらはごまかしにくいがゆえに,その影響下で道徳に反する行為を行うように見える人々に信頼性を与える。私たちは,人が本当に怒りや愛情や恐怖に圧倒されているのなら,彼らが自分の行動の方針を変えることはできないと考える傾向があり,また,強力な感情のせいで彼らは正しい道徳的選択をすることができなかったのだと信じているゆえに,普通は彼らを許す。誰もが知っているように,このように感情の持つ抑えきれない力があることを信じているために,法律を破る人々に自らの行為の法的結末を免れさせてしまうことさえある。
2
感情が私たちの道徳観に影響を及ぼす2つ目の方法は,道徳性そのものが感情的反応に深く根ざしているという事実と関係がある。[ 訳問題 ],まるで善悪の原則が制御不能な激情の影響を受けないものであるかのように,あるいは少なくとも受けるべきではないかのように言う。しかし,これは誤解を招く表現だ。嫌悪,怒り,愛情,恐怖といったものはみな,私たちが普通認めている以上に,道徳的選択を行う私たちの能力を形作っている。感情と道徳性の関連を示す1つの好例は,有名な「暴走列車のジレンマ」だ。暴走する列車の車両が線路を暴走し,その危険に気づくことができず,そのままではきっと死んでしまうであろう5人の鉄道作業員を直撃しようとしている。あなたはたまたまその車両を別の線路に導くことのできるレバーのそばに立っている。しかし,その線路にはもう1人の作業員がいて,あなたがそうすればその人は死んでしまうだろう。問題は,レバーを引いて1人の命と引き換えに5人の命を救うべきかどうかということだ。その問題に答えた後,もう1つのジレンマの事例について考えてみなさい。あなたは橋の上に立って暴走列車を見ており,それを止めることのできる唯一の方法は,たまたま欄干に寄りかかっている大男を列車の行く手に突き落とすことだ。この場合も,あなたはそれをするべきだろうか。
3
どちらの事例も5人の命のために1人の命を犠牲にすることになるのだが,ほとんどの人が最初の事例には「はい」と答え,2つ目の事例には「いいえ」と答える。これは15万人以上を対象とした調査で検証されたのだが,彼らのうちの90パーセントがレバーを引くことには「はい」と答え,男を突き落とすことには「いいえ」と答えた。合理的判断ではなく本能が2つ目の選択を「間違っている」とするようだ。しかし,実際に,医療研究者たちは,「本能による」感情的反応が前頭前野腹内側部(vmPFC)と呼ばれる脳の部分によって支配されていることを発見した。vmPFCに損傷を受けた人々は,レバーを引くのと同じくらい簡単に大男を突き落とすだろう。反対に,vmPFCに損傷を受けていない私たちが男を突き落とさないのは,外科医が1人の健康な人間を殺し,彼の臓器を,それがなければ死んでしまう5人の患者の命を救うために使うことを許さないのと同じだろう。私たちの感情的反応は,最も有益な結果を導くどんな抽象的合理的計算よりも強力なのだ。
4
私たちの道徳観がいかに感情に影響されているかを認識するのは衝撃的なことかもしれない。しかし,私たちを導いてくれる適切な感情的反応がなければ,私たちは実際にはお粗末な道徳的判断を下してしまうのではないだろうか。たとえそうすることの結果がその行動を正当化するように見えても,橋から大男を突き落とすことを拒むのは正しくないのだろうか。レバーを引くのと同じくらい簡単にその男を突き落とすことができる人は,道徳的判断装置の中核部分が欠けていて,感情面の盲点を持っているのであり,恐らく何のためらいもなく残酷な行為をすることができるだろう。要するに,私たちの感情は私たちの道徳性と無関係であるべきだという考え方とは逆に,私たちは道徳的人間であろうとするならば,実のところ感情が必要なのだ。[訳問題]。
コメント
コメントを投稿