早稲田政経2011 II 解答・全訳


1.(c)
2. (e) (h) (g)
3. (c)  
4. (a)  
5. (b)
6. (e)(b)(c)(d)(a)
7. (b)  
8. (e)

 強盗に攻撃を加えることから,赤信号を無視して飛び出すというようなことまで,私たちはますます法律に従わず自分勝手に行動するようになっている。しかしこれは道徳的に正当化されることだろうか。法的手続きを踏まずに勝手に行動を起こす人たちが大衆やマスコミから強い支持を受けることも多い。ロンドン警視庁の警視総監は,事件被害者は犯人にためらうことなく反撃するよう勧めてさえいる。そのような勇気ある行為は,彼の言葉を借りると,「私たちの社会のためになる」のだそうだ。
 違法行為は他の場面でも顕著になっている。ロンドン中心部では自転車に乗った人がスピードを上げて赤信号を突っ切り,じっと待たなければならない運転者たちをイライラさせる。とはいえ。その運転者たちの1人に目をやると,自転車がスピードを上げて走り去るなか,メールを打っている。その一方では,学生が,違法なファイル共有サイトから音楽ファイルをダウンロードする。これらの例はすべて,社会的に無法がはびこっているという新しい時代を指し示しており,こういう時代では,人は恥じることなく法律を破り,自らの行為を哲学的な根拠に基づいて正当化しようとさえする―やれ法律に不備な点があるのだとか,その犯罪には被害者が出ないとか,単純に,他のみんなもやってるんだから自分たちもいいじゃないか,とか,理由をつけるのだ。しかし,こういう主張は,そう思われる以上に薄っぺらなものであり,私たちが市民として,抗議する役割や法律に対して示すべき敬意をどう理解しているかについて,厄介な問いを投げかけている。
 もちろん,私たちはみな,ある程度は法律違反をしている。インターネットの利用者の大半が,はからずも著作権法に違反するだろうし,役に立つファイルを人に回すことの法律的な正当性についてはあまり真剣に考えないだろう。車を運転する人はみな,何かの折に速度制限を破ったことがあるし,アルコールの上限値を超えた状態で運転した経験のある人も多い。しかし,こういった事例は,意図的に法律を破り,なおかつ自分は何も悪いことはしていないと主張するのとは話が違う。
 違法行為を正当化するために用いられる多くの議論は,「中和理論」の典型例である。 1950年代に アメリカの社会学者のグレシャム=サイクスとデイビッド=マッツアは,この理論を使って,犯罪者の言い訳を分類した。その手法は今日でもなお妥当性がある。二人の発見したところでは,法律を破る人たちの大半は,ことを選んでそうしているにすぎず,法律や慣習や道徳のない世界で暮らしたいなどと,まず思ってはいない。たいていは,正直というような特性を立派だと思っており,罪悪感をいだく能力も持ち合わせている。したがって,中和というのは,自らの違法行為と折り合いをつける方法であり,その行為を定義し直すことで罪悪感を最小化しているのだ。
 サイクスとマッツアは5つのよく見られる中立化する言い訳の概要を述べている。1つ日は,責任を認めないことである。その場合,行為者はそうせざるを得ない状況だったということだ(「赤信号で自転車を止。めることができなかったんだ―路面が凍っていたからね」)。2つ目は,損害の否定である(「誰も損をしたわけじゃないし」)。3つ目は,被害者を認めないことである(「彼の自業自得さ」)。4つ目は,「非難する側に対する非難」だが,それはつまり,違法行為を非難する人たちが,その人たち自身の堕落ぶりや身勝手さを非難されるわけである(「音楽業界はとにかく金に汚いからね」)。5つ目の,最後のものは,その法律に体現されている価値観よりも高尚な価値観に訴えることである([音楽はすべての人にとって無料であるべきだ])。しかし,このような言い訳は一体,哲学的に見ても健全といえるのだろうか?
  赤信号の問題を例にとろう。車を運転する人たちは,自転車に乗った人た ちを巻き込む事故を,自転車に乗った人たちが彼ら同士の間で起こす事故よ りもはるかに多く,実際に引き起こしている。この事実を受けて,サイクリング団体のロビイストであるグリス=ペックは「サイクリストにとって最大の問題は車の運転がひどいということだ」と発言している。彼の論法は,4つ目の言い訳の例であり,被害者が非難する側を非難しているのである。しかしながら,あなたの非を訴えている人たちの悪いところを示したからといつて,それ自体においては,違法行為を正当化することにはならない。たとえば,もし泥棒があなたから何かを盗んだら,あなたは当然,彼を非難するだろう。彼は彼で,ことによるとあなたが会社から何かを盗んでいることを立証するかもしれないが,そのことが彼自身の違法行為の言い訳にはならないのである。
 自分たちは法律に違反しているとわかっている,ファイルの共有者の場合はどうだろう? ここでも,中和化の手法のほとんどすべてが作用し始める。ファイル共有者たちは,値段があまりにも高いからそうせざるを得ないのだと主張する。もっと真面目な話,ファイルの共有者たちは,誰かに害を及ぼしているわけではないと言う傾向がある。ダウンロードは概して被害者のいない犯罪である,こうした犯罪の場合,万引きなどと違って,もとの品物は無傷のままで,誰か他の人がそれを買うこともできるのだ,と主張するのである。最も興味深いことに,より高尚な価値観に訴えるということも多い。つまり,文化そのものは無料であるべきだという考え方に訴えるのである。しかし,これらの中にまともな議論はあるだろうか? 確かに店から物を盗むことと,音楽やその他の芸術的コンテンツをダウンロードすることとは同等のことではないが,だからと言って,ダウンロードでは誰も被害を受けないということにはならない。創造産業は今も,もうけを生むクリエーターに頼って成り寸っている。実のところ。インターネット上での海賊行為(著作権侵害行為)は,市民的不服従という英雄的な行為などではない。それは,ほぼいつの場合も,コンテンツに対して対価を支払わずにすますための自分勝手なやり囗なのであり,ちょうど,赤信号を走り抜けるサイクリストが一刻も早く帰宅したがっているというのと同じなのだ。
 たいていの人は,不当な法律を破ることは道徳的に見て正しい場合もあるとは認めている―ローザ=パークスのこと,そして,人種によって席が分離されていたバスで彼女が自分の席を明け渡すことを拒んだことを考えたり,アラバマのバス路線の利用をボイコットすることで彼女と行動を共にした人たちのことを考えたりしているのだ。もしかしたら,現代の新手の社会的な法律違反者たちの中には,自分は市民的不服従の伝統のうちで行動しており,ヘンリー=ソロー,ガンジー,マーティン=ルーサー=キング=ジュニアに連なる尊い行為をしているのだと考えたがる人もいるだろう。しかし,これにどれはどの説得力があろうか。哲学者のジョン=ロールスは,次のように強く主張している。マーティン=ルーサー=キングの有名な「バーミンガム刑務所からの手紙」の伝統を受け継ぐ市民的不服従は,自分本位のものではなく,常に公然と行われるものであるーというのも,市民的不服従は,地域社会の正義感に訴える意思伝達の一形態なのだから。そういうものだからこそ,市民的不服従は必ず,合法的な抗議やデモが失敗に終わったときの,最終手段であるべきなのだ。
 これはつまり,あなたが見たくても高くて買えないファイルの海賊版をダウンロードすることや,通勤途中に赤信号を無視することは,より公正な法律を作ることを目的とする何かしらの主義に基づく行動などではないということである。逃げようとしている侵入者の頭をぶん殴ることは真の正義ではない。もし自転車に乗っている人やファイル共有者が法律を変えたければ,抗議する公的手段を見つけるべきなのだ。さもないと,自己本位の法律違反のやり方を選ぶ人たちは,今後も引き続き,ローザ=パークスよりむしろテレビを盗む泥棒との方で,共通点が多いままだろう。

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